日本とヨーロッパの子育て環境の違い、特に乳幼児連れの外出にまつわる環境の違いについて考えてみたいと思います。
一概に「ヨーロッパ」や「日本」と言っても、住んでいる国や地域によって事情は変わってきます。ここでは、実際に自分が子どもを連れて外出した東京近郊と、イギリス、フランス、イタリア、ベルギーの都市部の経験を比較してみたいと思います。
日本でも海外でも、子育てをする人やそれを見守るすべての人にとって、より住みやすい環境が広がっていってほしいという願いを込めて。
比較の前に。子育てする側のマナーの問題など
子育て環境というテーマはとても難しく、少子高齢化などいくつもの大きな社会問題につながっています。
子育てする親と見守る側の意見の違いに由来する問題も少なくなく、日本では民間だけでなく国家主導でも大きな議論が続けられています。大きく分けると、
- 外に出ると子どもに不寛容な人がいて、親としては肩身の狭い思いをすることがある。
- 子どものしつけをせず公共の場でも平気で他人に迷惑をかける親がいて、嫌な思いをする。
と、2つの対立する意見がありますが、実際はどちらかの意見にだけ賛同している人は少ないように思います。例えば未就学児を育てている私自身、他の親子連れを目にして
と悲しい思いをしたこともあれば、
と憤るような気持ちになることもあります。
しかし、自省を込めて言いますが、一部の意地悪な人や迷惑な人を取り上げて、それを全体として攻撃したところで、すべての人が住みやすい環境を目指すことはできません。
この記事で日本と海外の子育て温度差について書きたかった元々の理由は、
- なぜ日本で子どもと外出したときに、より不安を感じることが多かったのか?
- なぜ日本で子どもと外出したとき、神経のすり減り具合が大きく感じられたのか?
という「なぜ」について考えてみたかったからです。
子育てに限らない一般論として、ことばも文化も異なる異国に比べると、自分が生まれ育った国というのは安心できる場所のはずです。
仮に、
という意見があるとしましょう。それならば、国外でも同じように優しくない扱いを受けていないと辻褄が合わなくなります。
日本と違わず、他人に迷惑をかけるようなマナー違反の子連れは海外にも存在します。そして、日本と同じように眉をひそめられます。
国内外で等しくマナー違反の親子連れがいるのに、なぜよその国での方が子育てにより寛容な雰囲気を感じたのか?
それを考えるために、実際に経験したヨーロッパの子育て環境について例をあげ、その違いを見ていきたいと思います。
子どもにかまう大人
「日本では知らない人に声をかけてほしくない親が増えていて、周りが子どもや子連れの親に声をかけづらくなっている」という話を耳にします。実際に全体がそのような傾向になっているのならば、とても、とても悲しい話です。
ヨーロッパではどうかというと、相対的に子どもに笑いかける人や子どもに話しかける人が多いように思います。もちろん、日本でも優しく声をかけてくれる人に出会うことはありますが、遭遇する割合がそれとは比べ物にならないほど高いと感じます(2018年現在)。
例えば、ベビーカーで近所のスーパーに買い物に行ったとしましょう。家から往復で1キロほどの距離をただ歩いただけで、こんなことが起こります。
- 道すがら前を通っただけの店のスタッフが娘に風船をくれる
- 道端ですれ違った女性が「いい子ねぇ」と娘をほめたたえる(ベビーカーに座っていただけなので、なぜいい子かは不明)
- スーパーで買い物していた男性がニコニコと娘に話しかける
- スーパーのレジ係が娘に話しかけ、オマケのプレゼントをしてくれる(本来はスタンプ貯めてもらう景品)
- 信号待ちで前を通ったバスの運転手さんが、笑いながら娘に手を振り返してくれる
こうした小さな優しさは、子どもの心を豊かに育ててくれる恵みの雨。
「お家の外にも、ママやパパのように優しい人がいっぱいいる」と繰り返し認識することで、幼い子どもにとってまだまだ知らないことだらけの世界は、楽しく素晴らしいところになっていくのではないでしょうか。
そして、親は他人から受けたありがたい気持ちに感謝するとともに、次の子育て世代に優しさを送ることで社会へ恩返しをしていけると思うのです。
ファミリーフレンドリーと子連れ禁止
ヨーロッパで子どもを連れて外を歩くと、赤ちゃんや幼児連れの外出は日本でよりも「ふつう」のこととして認識されているように感じます。近年は都市部を中心にバリアフリーが進んだり、家族に優しい「ファミリーフレンドリー」なお店がトレンドとなっていたりと、幼い子と一緒でも気負うことなく外出を楽しみやすい環境が広がっています。
日本では、子どもの絶対数が減っていることや高齢者の割合が急激に増えているという背景も手伝って、子どもが社会にいることは「ちょっと特別なこと」になってきているように思います。そんな状況が、次のような憂うべき現象の大きな一因となっているのではないでしょうか。
- 「子連れ様」と揶揄されるように、他人の迷惑を省みない親が「子どもがいるから無礼講」的に、勘違いしたふるまいをする。
- 本来子どもというものが心身ともに成長過程にある未成熟な存在であることを忘れてしまう大人が増えている。
もちろん、ヨーロッパでも高齢化が進んでいますが、社会の中に子どもがいるのはごく当たり前のこととしてとらえられているように感じます。
例えば、ビールを飲む場所というイメージの強いイギリスのパブ。パブの場所と時間帯にもよりますが、ほとんどのパブは赤ちゃんや子どもを連れて入ることができ、それは特別なことではありません。気分転換に赤ちゃんを連れてベビーカーでパブに行き、ランチを食べながらビールを飲んでいる優雅なママの姿は、とりわけて珍しくありません。
ただし、それはせいぜい20時まで。それ以降は、健やかな成長のために乳幼児は寝ているべき時間であり、外を出歩く時間ではないからです。つまり、それまでは外に出たら子どもにも遭遇する時間だけれど、それ以降は大人の時間となるわけです。
もちろんヨーロッパにも「常に子どもお断り」の場所やレストランはありますが、それはジーンズでは入れないドレスコードのあるお店や、音を立てずに鑑賞しなければならない美術館や、会員制のバーのような特別なところ。大人であっても、求められる条件をクリアできなければお断りされてしまう場所であるのが一般的です。
レストランを「子連れ禁止」とする流れがヨーロッパにない理由の1つは、歴史的なコンテクストも大きく関係しているでしょう。「子連れお断り」の貼り紙が、前世紀の「ユダヤ人お断り」や「犬とイタリア人の入店禁止」といった人種差別を彷彿とさせることは、どうしても否めないのです。
親には子を見守り教育する義務と責任があります。子どもが子どもらしくあることと、しつけをしないことの間には大きな違いがあります。ステキな古民家カフェの障子を破って知らん顔をして帰ってしまう親、自分の話しに夢中で子どもをレストランで走り回らせる親……。そんな親が来店したら、子連れ客のイメージは最悪になるでしょうし、「子連れお断り」とするお店側の苦渋の選択もよく分かります。
でも……。
とするのが当たり前の世の中になってしまったら、
- 耳が遠く大声で盛り上がる老女グループが迷惑だから、老人様すべてお断り
- 限度を超えて酒を飲み、酔っ払うと手を叩いて大笑いする日本人団体がうるさいから、どんな日本人も入店お断り
といったお店が生まれてきても、異論が唱えられなくなってしまいます。
目につく一部の人を全体とみなして扱う。その行為は差別につながる大きな危険をはらんでいる。社会が分断することなく、子どもも大人も社会の一員として気持ちよく過ごすために、私たちはどんな解決策を見つけていけるでしょうか?これは、子育てをめぐる話としてだけでなく、より普遍的なテーマとして考えていくべき問題なのではないかと思います。
ヨーロッパの中でもとりわけ子どもをかわいがるイタリアで、心の底から感動した経験があります。旅先の急な仕事でネット環境のあるカフェに入った時のこと。事情を説明してコーヒーを待ちながら仕事を始めようとしていた矢先、オーナーがクローズしていたエリアをわざわざ開けて、私の隣で静かに待っていた娘のためにテレビをつけ、お孫さんが大好きだという番組を見せてくれました。
思いがけない優しい救いの手に甘えさせてもらい、私は安心して、集中して、仕事を終えることができました。感謝してもしきれない思い出です。
誰でも外に出られる
全駅エレベーター設置計画やノンステップバスの普及など、日本のバリアフリー環境は日を追うごとに充実しています。ヨーロッパよりもずっと進んでいるケースも珍しくありません。
けれど、ハード面の整備に比例して、より多くの人に快適な環境が整ったかというと、必ずしもそうとは言い切れないように思えます。こちらも、子育て当事者と周りで見守る側との間にある深い溝が問題になっています。
ベビーカーで公共交通機関を利用する際の対応が各社ばらばらであったことも、乗客の認識にギャップや混乱を生じさせた一因と言えるでしょう。国土交通省が開催する「公共交通機関等におけるベビーカー利用に関する協議会」の2016年度の資料を見てみると、
今後取り組むべき事項や課題等として、ベビーカー使用者と周囲の利用者の双方 に継続的な周知が必要との意見が多い。
第7回公共交通機関等におけるベビーカー利用に関する協議会(平成28年12月8日)の配布資料『ベビーカー利用に関するキャンペーン等の取り組み』より抜粋
とあり、ベビーカーを使う乗客と周囲の乗客双方へのマナー啓発が必要であるとされています。
それを裏付けるように、個人的にも、
- ベビーカーを利用した4組の子連れ乗車(つまりベビーカー4台)が電車内の通路を完全にふさいでしまっている、危なく迷惑な場面に出くわした。
- 国土交通省がキャンペーンでも紹介している「できること」に倣い、電車がとても空いている時間にベビーカーをたたまずに乗車したが(誰かの進路妨害をすることもなく、子どもは声ひとつあげていない)、ジロッと睨んでぶつぶつ文句を言いだす人や、舌打ちする人に遭遇した。
といった経験をしています。
自分の子ども時代に遡るだけでもよく分かるように、私たちをとりまく環境は日々大きく変化しています。
と、ある年配の女性がこぼした「昔」は、彼女が「現在」乗っているエレベーターやエスカレーターもずっと少なかったわけで、足が弱かろうが階段をのぼってホームまでたどり着かなければ電車に乗れなかったのです。みんながよりよく暮らせるための技術があるのだから、それをどう活かしたらいいのか、私たち一人ひとりがきちんと考えなければならないはずです。
さて、一方のヨーロッパの公共交通サービスはどうなっているでしょうか?
例えば、日本では電車よりもベビーカー乗車のハードルが高いバスを見てみましょう。ロンドンやブリュッセルでは、ベビーカーを畳まずにバス乗るのが当たり前になっています。小さい子をもつ親には、とてもありがたい慣習です。
通常ベビーカーをおけるスペースは数台分あり、多いときは1度に4台くらい乗ることもあります(日本の普通サイズのバスで、車内の通路を遮ることなく)。
けれど、決して子どもが最優先なのではありません。車椅子の人が乗車したらベビーカーは畳むかバスを降りて場所を譲る、という認識がしっかりと浸透しています。車椅子がなければ移動できない人に、ベビーカーがないと大変だけれど歩ける人が譲るのです。常に弱者が犠牲になることなく、それぞれ助け合ってすべての人がサービスを利用できるようになっています。
翻って、ヨーロッパの地下鉄や電車をベビーカーで利用する際は、大きな問題点もあります。車内にベビーカーを置けるスペースがあるものの、建築物保存の目的などからバリアフリー化に遅れがあるためです。しかも、現地のベビーカーは2人乗りやたためないタイプなどサイズの大きいものが主流なので、いくら筋肉隆々のママでも一人で担いで階段を上がるのは至難の技……。
ところが、実際に電車や地下鉄で見かけるベビーカーの数は、日本よりも多いのです。それを可能にしているのは、人というソフトの力。一人ひとりの個人の行動が、足りないハードを補っているという現実があります。
例えば、ロンドンの中心地をベビーカーで出歩くと、一人でなんとかできることをしようと思う間もなく、驚くほど多くの人から声をかけられ、手を貸してもらえます。
それは個人的な感覚論ではないようで、他国に比べて日本では子連れに声をかけること自体がずいぶんと少ないという資料が公開されています。
より正確に言えば、子連れに限らず、目の前に困っている人がいたら声をかけたり助けたりすることが、ヨーロッパではごく「ふつう」のことになっていると感じます。持てるものの義務であるノブレスオブリージュ、ジェントルマンシップの誇り、隣人を愛するカトリックの博愛……。その理由や背景はいろいろでしょう。
目の前に困っている人がいたら、あなたは何を感じますか?困っている人は自分に迷惑をかける邪魔な存在ではなく、手を差し伸べる対象ではないかと私は思うのです。自分が子連れだから「助けてくれ!」と言いたいわけではありません。自分の子どもがベビーカーを卒業して、再び誰かを容易に助けられる側に戻ったからこそ、より強くそう感じます。
まとめ
現代の日本で絶対的に少なくなった子どもの数。だからと言って、子どもは「特別」な存在ではなく、社会を構成する「ふつう」の一員です。
お子様の保護者だとふんぞりかえったり、子どもが成長過程にあることを忘れて厳しく大人同様の行動を求めたりするのは、どちらも子どもが社会の一員として健やかに育っていくことを阻む態度ではないでしょうか。
この記事は海外が素晴らしいから真似すべきという意図で書いたのではなく、ほかの場所との比較によって自分たちの社会についての理解がより深まり、それをよりよくしていく糧とできないだろうか、と思ったからです。
子育てという枠に限らず、世代や生活環境の違いで社会が分断するのではなく、一人ひとりがよりよく生きられる社会を未来の世代に残したい。そう願ってやみません。